この作品は読み込めば読み込むほどに「はまる」。
最初はマンガで描くべき作品だったのか?という根源的な疑問が湧き、次には文字を追うほどに、ここに絵が付加されていなかったらどうだったかと考えてしまう。
読む側に与える効果を考え尽くした日本のマンガに比べて読みづらさがあるにもかかわらず、この作品の深度に驚きながらやめられずに読み進めた。扱ったテーマがリアルで、描写が正直であることも興味を引く理由ではあるが、賞する理由の最も大きなことは、日記と文章と絵、この3つの要素がこのように絡み合わなければ、この作品は描けなかったのだという確信だった。
決して美しいとか説得力があるとかいう一般的なことでなく、「必然」という強い力により、飾り気が一切なくハードとさえいえるこの物語を、完璧に終結させたことは称賛に値する。
第15回文化庁メディア芸術祭
マンガ部門優秀賞 贈賞理由より
この不可思議で一見冷淡にも見える家族の関係は、それでいて私たちをどうしようもなく惹きつけるものがあります。
文学的ユーモアに満ちた表現を交えつつも、他人の人生の如く淡々と描かれた著者の半生は、まさしく文学のように感情的でない感情を私たちに突きつけてきます。
私にとっては「ファン・ホーム」を読み、咀嚼した時間は、非常に興味深く有意義なものになりました。
まずは、読んでみてください。胸に重たく残る読後感を、これほど心地よく感じられることはそうそうないでしょう。
廣井 悠紀さん
〔紀伊國屋書店新宿本店〕
著者アリソン・べクダルが父親の死をきっかけに、回想するシーンからはじまるこの作品。自身の同性愛者としての目覚め、父との思い出や家族と過ごした日々の思い出は、フィッツジェラルドやプルーストなどの文学が多く引用され、まるで海外文学を読んでいるかのよう。アリソンが多感な青年期を過ごした70年代アメリカの時代背景も知ることができる優れたノンフィクション作品でもあります。
『ファン・ホーム ある家族の悲喜劇』を原作としたミュージカルの日本語版公演が決定したことと同時に、日本でもLGBTや家族に関する社会問題が関心を集めつつあるタイミングで、この作品が新装版として発売され、多くの人に読まれる機会が巡ってきたことを嬉しく思います。
平井 篤紀さん
〔青山ブックセンター六本木店〕
アリソン・べクダルが現れたとたん、満員の会場が湧いた。2015年5月、ニューヨーク。第1回「クィア&コミックス」のメインパネルでのことである。舞台上のアリソン・べクダルはひたすらカッコよかった。その翌月、ミュージカル『ファン・ホーム』は、作品賞を含むトニー賞5部門を総なめにした。原作を読んでいた私は、とてもミュージカルになるとは思えない題材なのに……と思ったが、ミュージカルはベクダルの作品世界を見事に結晶化して見せていた。
しかし、やはりこの作品の襞は、原作のコミックスの中にこそある。それぞれが職人的な世界に閉じこもって生きる家族の中の秘密。ゲイであることを隠して生きた父と、レズビアンであることを自覚し両親にカミングアウトした娘、そして父親の死――を縦軸に、日記と文章と絵と、そしていくつもの文学が交錯する。「ファン・ホーム」とは、父が営む葬儀場の名前。死はいつも厳粛だが、同時にほろ苦い笑いをその奥に含む。死と同じように、人生はいつでも、複雑な味をしている。
藤本 由香里さん
〔マンガ研究家・明治大学日本文化学部教授〕
歪に傾いてすっかり壊れた家におずおずと足を踏み入れるような心持ちで読み進めていくと、みるみる景色が変わってくる。
歪さも傾きも、すっかり壊れてしまったように見えた箇所も、他人の偏った目からは垣間見ることのできない、家族の、親と子の在りようを映し出し、物語が静かに力強く立ち上がってくる。
読み終えたとき、ずっとズレていた視力を矯正してもらったような気分になり、改めて周りを見渡せば、いかに自分がこれまで整っているようでじつは手遅れなほど壊れているものに目を止めていたかに気がついて猛省してしまった。
一生の間にそうはたびたび出逢えない物語であることを、本屋の店員として保証する。
宇田川 拓也さん
〔ときわ書房本店〕
自分がアリソンさんを演じるという目線で読ませて頂きました。
とても、家族の事、両親の事を思いながら、記憶を辿るように一筆一筆、想い出しながら描いていらっしゃる姿が目に浮かぶ様でした。客観的に俯瞰して、自分自身を描いているのがとても印象的な作品でした。重くなりがちな題材を、漫画というポップな手段で表現されているところにアリソンさんの知的さを感じます。
瀬奈 じゅんさん
〔女優/ミュージカル『ファン・ホーム』アリソン(漫画家)役〕
これは、こういう話である。
筆者(アリソン・ベクダル)にとって父は魔法の手を持つ『若き芸術家の肖像』のディーダロスだったが、父は自分のことを『華麗なるギャツビー』のジミー・ギャッツになぞらえていた。美しいがどこかよそよそしく、素人演劇に身を投じる母親のことを、アリソンはヘンリー・ジェイムズの『ある婦人の肖像』のイザベル・アーチャーのようだとも思う。アパラチア山脈の中の田舎町で葬儀屋を営むベクダル家には、表面からは見えない多くの秘密がある。アリソンは成長の過程で、秘密のヴェールを一枚ずつはがしてゆくように、その真実を学んでいく。まるでジョイスの、あるいはプルーストの小説のように、物語には(人生には)いくつもの層があり、どこまでも奥深いものなのだ。
これはアリソンの自伝であり、心を通わすことのなかった父親の伝記であり、文学論でもある。コミックというメディアで、『失われた時を求めて』を自分の人生と重ね合わせて論じるだなんて、誰が考えただろう! だが、アリソンは大学で出会うどんな英文学の教師よりもジョイスを生きているのである。アリソンと父とは結局わかりあえなかった。だが、文学を通じてなら、人は通じあえるかもしれない。すべての文学愛好者にお勧め。翻訳者、椎名ゆかりの仕事も素晴らしい。
柳下 毅一郎さん
〔特殊翻訳家・映画評論家〕
アメリカの片田舎に暮らす家族がいる。葬儀屋を営みながら、子供達に囲まれ、古い家を直し、日々が過ぎていく。等と書くと、さぞ牧歌的な暖かい家族の話なのかと思ってしまうが、各々に秘密や渇きを抱え、屈折した姿が描かれている。父の死をきっかけに、娘は自らの過去を静かに紐解いていく。そこには、ある女性のアイデンティテの確立と再構築を見ることが出来る。多くの引用される近代文学に重ね、語られる様は決して明瞭なグラフィックノベルとは言えないが、時間をかけて、じっくり読み返していきたい作品である。
残念ながら引用される文学の多くが未読であった為、巻末の説明には大変助かった。アリソン・ベクダルの母を描く「Are You My Mother?」も是非読んでみたいものだ。
佐野 祥子さん
〔丸善ラゾーナ川崎店〕
『ファン・ホーム――ある家族の悲喜劇』は、長らく男性中心だった米国の女性コミックス表現に新しい可能性を切り拓いた「グラフィック・メモワール(回想録)」の代表作である。
互いにセクシュアル・マイノリティであり、精神的に深く結びつきながらもすれ違い続けた亡き父親への追憶を「文学的」な手法を駆使しながら表現している。女性自伝文学の伝統に位置づけるならば、性・同性愛に対する自己認識の過程も読みどころになるだろう。
構図を探るにあたって、作者自ら父親の扮装をし、その姿を写真に撮影したという。「父親と一体化する」行為を通じて父の人生を承認し、はたしえなかった相互の交流を試みる。
モノローグや内面描写を表すのに効果的な「文学」に対して、自分自身の姿をも客体化する「コミックス」ならではの視覚表現の特性を、どのようにブロードウェイ・ミュージカルで再現しうるのかが注目されていたが、時系列を再構成しつつ父親との関係性を重層的に描き、時間と空間を伸びやかに解き放つ新感覚ミュージカルとして高い評価を受けた。
回想とは必ずしも時系列的ではなく、時に螺旋的に連鎖していくものである。回想と思索のゆるやかな、それでいて巧みな繋がりをコミックスの手法で表現しえた本作は、メディア表現の特性を実感できる傑作。日本版舞台公演と併せて、待望の「新装版」刊行を喜びたい。まさに観る前に読むか、観てから読むか。味わいがさらに増すにちがいない。
中垣 恒太郎さん
〔大東文化大学教授・アメリカ文学/現代文化研究専攻〕