La Douce

La Douce - 12.004

12.004号蒸気機関車

1930年代、主だった鉄道会社は速度を競い合った。技術が進歩して、より重い列車を牽引できるようになり、速度も増していったのだ。機関車のコンセプトが刷新されたことも無関係ではないだろう。流体力学の応用によって空気抵抗が減少し、当時ますます重要な尺度となっていた時間を短縮できるようになったのである。
鉄道と並行して、自動車、船、飛行機など、その他の交通機械も同様の変化を遂げた。機関車の製造会社は、新進気鋭のデザイナーのアイデアを活用した。アメリカでは、レイモンド・ローウィがクリエイティヴな才能を発揮した。ヨーロッパも負けてはいなかった。工場では、旅行者の想像力をかきたてるような機関車を送りだした。

 

 
色鮮やかで申し分のないフォルムは、伝統的な蒸気機関車を時代遅れの産物にしてしまった。新時代のフォルムは、現代性と速度を体現していた。これ以降、新たな領域を開拓した交通手段は、グラフィックアートの分野でも、にわかに関心をもたれるようになった。映画や写真やポスターによる表現は、こうした目覚ましい変化を鉄道以外の分野にも波及させていった。
この時期、アンドレ・ユエというフランス人が機関車の新たな流線形を構想した。彼は、正面に開口部を設け、速度を上げたときの空気抵抗をできるだけ弱めるために、空気を脇にそらす縦長の裂け目を作ることを考案した。こうした新技術によって、さらにパワーアップし、石炭の大幅な節約が可能となった。車体の側面にあるスカートと呼ばれる部分にも大きな開口部を設けて、クランクシャフト〔機関車のエンジン部分を構成する動輪の車軸〕の点検修理を容易にし、空気が十分に流れるようにすることで機構部の過熱を防げるようになった。

パシフィック13.025号のようなフランスの機関車は、このような革命的なコンセプトを体現していた。これが12形の元祖となった。その後アンドレ・ユエは、ベルギーの鉄道のために自らのアイデアを練り上げることになる。
このときSNCB〔ベルギー国有鉄道〕は、時速140キロで走れる新たな機関車を求めていた。電気機関車による牽引の分野が長足の進歩を遂げていたのと同様に、蒸気機関車の分野でもパフォーマンスの向上が求められていた。そんなときラウル・ノテスという技術者の登場によって、12形アトランティック(4-4-2軸配置)という蒸気機関車が誕生する。この才能あふれる技術者は、疲れ知らずの働き者で、1形アトランティックをすでに開発していた。12形は直径2メートル10センチという二つの大きな動輪が使われ、高速を誇る機関車となった。12形は流線形の車体に個性が表れている。6両の12形機関車は、リエージュ近郊のコッケリル社の工場で製造された。蒸気機関車の製造のためベルギーのコンソーシアムが出資した工場である。

 

機関車は1939年4月から7月の間に出場した。同年5月には、12.002号が、客車5両を牽引した状態で最高速度165キロを記録した。この機関車は3分間で時速140キロまで加速することができた。当時の乗務員たちはその性能に度肝を抜かれた。こうしてこの機関車は、世界最速の蒸気機関車として「ブルーリボン賞」を受賞する。同賞は、商用鉄道でもっとも速い列車を表すシンボルとして知られていた。

こうしてこれ以上ないというくらい幸先のよいスタートをきったわけだが、この機関車の運命は戦争によって大きく狂わされることになった。1940年5月に始まるドイツ軍侵攻の最初の時期には、3両の12形機関車が、難を逃れるためにフランスに移送された*。そのうちのいくつかはブリュッセルのスカールベークにある機関庫でドイツ軍の空爆を受けた。しかしすべて無事に生き延びて後に活躍したのだった。
余談だが、ドイツ占領時代末期の1944年9月2日と3日、12.002号は英雄的な行為に貢献した。機関士や機関助士の知恵と勇気によって、ドイツに移送される政治犯1370人を乗せるはずの車両をブリュッセルの周囲半径20キロにわたって「さまよわせた」のだ。こうして鉄道員たちは、この「幽霊列車」に乗るはずだった乗客を強制収容所送りという恐怖の運命から救ったのだった。戦後、6両の12型機関車は、鉄道輸送の分野で活躍した。
戦争が終わると、蒸気機関車は作られなくなり、300両の蒸気機関車がカナダとアメリから輸入された。あるいはドイツが戦時中に製造を命じた機関車が使われた。
60年代初頭に蒸気機関車の時代は終焉を迎える。電気やディーゼルによる牽引力が、蒸気機関という素晴らしい歴史の1ページを閉じたのだ。
1962年7月29日、12形は、リール=ベルギー間を運行する12.004形をもってその輝かしいキャリアを終えた。それからまもなく、ほとんどすべての蒸気機関車がスクラップになった。同形式中、最後に生き残った12.004号は、このような悲しい運命を免れた。これにはある逸話がある。鉄道会社の幹部たちが解体場に送られる機関車の車列を眺めていたとき、最後尾につけていた12形をぎりぎりになってこっそり救ったというのだ。幹部たちは12形機関車を倉庫の奥に保管することに成功した。1985年、ベルギー鉄道開通150周年記念のさいに12形は修復された。何両かの特別列車を従えた12形は大評判となった。
まもなく12形は、ブリュッセルに開館する予定の鉄道博物館の目玉の一つとなるだろう。
 

*1940年5月10日、3つに分かれたドイツ軍は、ベルギー、オランダ、フランス北部へと一斉に越境した。

 

The magic of technology

産業遺産となった伝説の機関車に再び命が吹き込まれる──。

このシステムを開発したフランスのダッソー・システムズは、遺産保存計画のもと、コッケリル・メンテナンス&エンジニアリング社の許可を得て、12形機関車を開発した技術を再構成し、最新の3Dテクニックによって、この蒸気機関車の傑作を再び走らせることに成功した。
現存する貴重な資料に基づき、実在する12.004号をデジタル化すべくスタッフが熱心に取り組み、かつての蒸気機関車の雄姿を再現するための3D設計図が作製された。この再生計画は、単なる遊びとしての要素だけでなく、教育的な意味合いも含んでいる。忘れ去られていた産業界の至宝をよみがえらせることによって、ダッソー・システムズは、未来世代に豊かな遺産を伝える貢献を果たすことになるからだ。このプロジェクトは、将来の技術者たちが新たな使命感を燃やすきっかけとなることだろう。

12形アトランティック:二次元の設計図から三次元モデルへ

CGによる12.004号機関車の設計図は、ダッソー・システムズの技師たちがCATIA[三次元CADソフト]で作製し、再設計した。

12.004号機関車の構造の主要部品: 動輪、ボギー(先輪)、従輪、シャーシ(主台枠)、シリンダーブロック、排障器、ロッド類、煙管式ボイラー、缶胴、過熱器、火室。

   

今回の計画は、コッケリル・メンテナンス&エンジニアリングが快諾し、意欲と熱意あふれる愛好家のチームによって実現した。以下の方々に謝辞を捧げたい。アンリ・カジエ、フレデリック・コラン、アントワーヌ・マス、クリストフ・マルシャン、ファブリス・ピノ、グザヴィエ・レモン、ジュリアン・トレヤール、パトリック・タシニョン。