今週は先週に引き続き、
BD研究会レポートということで、
メビウス研究家ダニエル・ピゾリさんの発表をお送りします。
今回は、後編〔メビウス編〕です。
※前編〔ジャン・ジロー編〕はコチラ
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原 「ジャン・ジローのお話、『ブルーベリー』のお話はここまでですが、このままメビウスのお話に入ってしまってよろしいでしょうか? ではピゾリさん、続けてメビウスのお話をお願いします」
ピゾリ 「では、ここからメビウスのお話をさせていただこうと思いますが、その前にこちらを。
これは間もなくフランスで行われるバンド・デシネの原画オークションに出品される原画の画像です。
ジャン・ジローは非常に大きな紙に原稿を描きました。例えば、これは60センチ×80センチ大の原稿です。
一般にフランスの作家は、日本の漫画家と比べると作品の数が少ないとみなさん思ってらっしゃると思いますが、フランスのバンド・デシネの場合、作業は作家さんが一人で全部やってるんですね。色もカラーも自分ひとりです。ですので、やはり1冊描くのに10カ月ぐらいかかったりするわけです。
さきほど、ジャン・ジローの話はお終いと言っておきながら、なぜまたジャン・ジローの話をしてるんだと思われるかもしれませんが、実はこの原稿は1974年頃に描かれたもので、この頃は、すでに彼はメビウスとしての活動も本格化させている時期です。つまり、ジャン・ジローとメビウスの境目というのは、なかなかハッキリと言えないところもあるんですね」
■メビウスに影響を与えたアーティストたち
ピゾリ 「では、ここから本格的にメビウスのお話をしたいと思います。先ほど、1963年には『ハラキリ』でメビウス名義の作品を描いてるというお話をしましたけれども(※前編〔ジャン・ジロー編〕を参照)、実際に本格的にメビウスとしての仕事を始めるのは60年代終わりから70年代にかけてです。まずSF関連のイラストの仕事を始めるんですね。そして、ジャン・ジローが先ほどお見せしたような非常に大きな用紙に筆で描いていたとすれば、メビウスの場合にはペンやロットリングでもっと緻密な作業をするというような感じになるかと思います。この二人の作家には、そういう仕事の仕方、絵の描き方の違いがあります。
メビウスの仕事においては、他のアーティストのからもさまざまな影響を受けています。
例えばこちらの絵では、アメリカのSF雑誌で非常に活躍していたヴァージル・フィンレイという作家の影響が、非常に色濃く出ています。
いわゆる銅版画のテクニックに似た描き方で、その後も頻繁に使われるようになりますが、こういう描き方はアメリカの作家の影響を受けていますね。
次に、こちらの絵はエド・エムシュウィラーの影響が見て取れる絵だと思います。
あとは、やはりギュスターヴ・ドレですね。これはドレの版画絵です。
メビウスの初期の作品には、こういったほとんど模写かと思わせるような、先人の絵のテクニックの影響をありありと見る事ができます」
■メビウス初期の傑作『まわり道』
ピゾリ 「そして1970年代、彼は1973年に『まわり道』という作品を、この時はジル名義で発表するんですが、これはメビウスの初期の典型的なスタイルだと言っていいと思います。
『まわり道』 (La Déviation, Pilote, 1973) |
メビウス自身が家族で出かけるところから物語が始まるんですが、当時の奥さんのクロディーヌ・ジローさんと娘のエレーヌが一緒にいますね。
この作品は、その後のバンド・デシネの作家達に大きな影響を与えることになります。例えば、この辺りの処理の仕方はエンキ・ビラルなどが非常に影響を受けていますね。ただ、皆さんがおそらく見慣れているビラルの絵ではなく、エンキ・ビラルの初期の作品に見られる影響です」
■五月革命以後のBD界の変化
ピゾリ 「1970年代の状況をお話する場合に忘れてはいけないのは、1968年のいわゆる五月革命―フランスにおける若い世代の台頭―です。それまでのものを否定して、新しい価値観がどんどん入ってくるという時代で、バンド・デシネに対しても、やはりいろいろな影響を与えました。
フランスのBD作家たちは、新しい世代の作家として、それまでいわゆる商業誌では描く事が難しかったセックスや暴力、あるいはさまざまな想像......ほとんど妄想と言ってもいいようなさまざまな幻想的な内容のものをコミックにしようとし始めます。
ただその際、『ピロット』誌のような雑誌では、なかなかそういうものは描けません。それで『ピロット』誌に描いていた作家たちが、自分の描きたいものを描くために、次々と『ピロット』誌を離れていくことになります。そのようにして、自分達のやりたいことができる、新しい雑誌を創刊しようという動きが出てくるわけです。特に有名なものとしては、『レコー・デ・サヴァンヌ(L'Écho des Savanes)』という雑誌があります」
■二つの出会い
ピゾリ 「メビウス自身は、1973年に『ピロット』誌で描くことをやめて、今度はメビウスとして自分がしたい仕事をやっていこうとするのですが、この時期、メビウスにとって非常に大きな出来事が2つ訪れます。
1つはホドロフスキーとの出会いです。この2人の出会いは、メビウスのその後の作品制作に非常に大きな転機をもたらします。
そして2つ目が『メタル・ユルラン』という雑誌の創刊ですね。1975年の話です。
ホドロフスキーはメビウスを『デューン』という映画制作の企画に誘うことになります。ホドロフスキーというのはご存知のように、作家であり、戯曲家でもあったわけなんですけれども、この『デューン』という作品の映画化で、メビウスに衣装デザインと絵コンテの仕事を依頼します。
メビウスは、この企画の準備のために3000枚の絵を描いたと言われていますが、残念ながら映画は実現には至りませんでした。ちなみにホドロフスキーというのは非常に変わった人で、タロットカードをやったり、ミステリアスなことに傾倒している人で、いわゆるスピリチュアルな世界にどっぷり浸かっている人なんですね。メビウスはこの時期、ホドロフスキーを師匠のように崇めていました。
そしてメビウスは、3人の仲間と共に、新雑誌『メタル・ユルラン』の創刊に着手することになります」
■『メタル・ユルラン』創刊
ピゾリ 「こちらをご覧ください。服装や髪型でお分かりになると思いますが、非常にセブンティーズな写真ですね。この4人が『メタル・ユルラン』の創刊メンバーです。
右からジャン・ジロー(メビウス)。なんか、靴を履いてなかったりします。その次がフィリップ・ドリュイエですね。ジャン・ジローがドリュイエの足を優しく踏んづけているところです(笑)。その次の、右から3番目がジャン=ピエール・ディオネですね。このジャン=ピエール・ディオネという人は、もともとコミック評論家だった人で、その後は映画評論家としても非常に有名になる人です。ベルナール・ファルカスという人がいちばん左の人で、この人はいわゆる資金調達をしていた人物なんですが、最終的に金庫を持って姿をくらましてしまいます。
それで、彼らは『メタル・ユルラン』を発売するにあたって、自分たちの出版社を作ります。それが、レ・ジュマノイド・アソシエという出版社で、今もあります。
これが、その当時メビウスが描いたレ・ジュマノイド・アソシエの会社のロゴです」
■『アルザック』の衝撃
ピゾリ 「そして『メタル・ユルラン』誌の創刊号で、再びバンド・デシネ界に衝撃を与えるような作品がメビウスによって描かれます。それが『アルザック』です。
こういうものを作るようになったというのは、当時の印刷技術の発達のおかげでもあります。それまでできなかった、絵に直接彩色するということがその頃からできるようになり、メビウスはさっそくその技術を使って、こういう仕事をしています。
それと、セリフのない作品というのも当時としては非常に珍しかったので、これも読者には衝撃でした。ここまでディテールを描き込んで、しかもカラーという、こういう作品はそれまでにはありませんでしたので、フランスのBD界に衝撃をもって迎えられました。
それと平行してもう一つ、世界的に、とりわけアメリカの作家達に非常に影響を与える事になる「密封されたガレージ(Le Garage hermétique)」というシリーズを始めます。『運命の少佐』という作品ですね。
これは『メタル・ユルラン』誌に毎号2ページを貰って描いていたものです。
その当時、メビウスはハリウッドの仕事もしていたので、それ以上は描けなかったんですね。毎号2ページずつ描いていたのですが、2ページごとにちょっと絵のスタイルが変わるというようなことにもなっています。しかも、いったいどんな話を描いていたのか本人が忘れた状態で次の2ページを描いたりするものですから、その前のページで起こっていた前日の話を、次に描いちゃったりするわけです。
ただ、ちょっと個人的なことを申し上げると、私はもう何千冊とコミックを読んできましたが、その中でもこれは本当にいちばんの作品だと思っています」
■変化し続ける絵
ピゾリ 「この『メタル・ユルラン』は1975年1月創刊で、1987年6月まで続きました。メビウスにとって、『メタル・ユルラン』誌というのは、イラストレーターとしても、いろいろなテクニックを試して、それをのちのち自分の作品に取り入れていくというような、そういう場所だったと言えます。
そしてこれはメビウスの素晴らしい点のひとつだと思うんですが、彼はどんなにスタイルを変えても、見る人にはメビウスだと分かるんですね。メビウスは常に変化し続ける絵描きで、同じスタイルで絵を描くということができない人です。ですから、最初にあるスタイルで描き始めたとして、絵が出来上がる頃には全然違うスタイルで描いているということもよくあります。
決まったひとつのスタイルで安定できずに、常に変わり続けるなかで、どうやって素晴らしい作品を描き得たのか、これはひとつ私自身のテーマとしてもありまして、それについて現在いろいろ考察しつつ本を書いているところです。順調にいけば、私の新しい著作として、来年には出版される予定です」
■さまざまなメビウスの仕事
ピゾリ 「これは、ジョージ・ルーカスに依頼されて『スター・ウォーズ』の世界を描いたイラストです。
ここには、彼の「密封されたガレージ」シリーズの主人公が描かれていたりもしますね。
『メタル・ユルラン』の時代から、残念ながら今年の3月に亡くなるまでの間、メビウスは本当に大量の作品を描いているのですが、その中からいくつか素晴らしい作品を選んでご覧に入れようと思います。
これは1999年の『B砂漠の40日間』(邦訳:飛鳥新社刊)。0.1ミリの細いロットリングで、本の大きさと同じ紙に下書きなしで直に描かれたものです。
これは彼が描いている場面を写した写真ですが、ここでは0.2ミリのロットリングを使ってます。
そして時にメビウスは、彼自身より、もっととんでもない人に出会う機会もありました。
これはアメリカのジェフ・ダローという作家さんと共作したイラストです。
ジェフ・ダローが下書きをして、ペン入れとカラーはメビウスですね。この仕事の後、メビウスは、こんなこと引き受けなきゃ良かったと言ったそうです(笑)。ジェフ・ダローという人は、非常に細かい絵を描くのですが、この一連の絵は彼自身がペン入れをしていたら、おそらく絵にならなかったんじゃないかと思います。これはやはり、メビウスが奥行き、その他を上手く考慮しつつペン入れをしているので、このような素晴らしい絵になり得たんじゃないかと思っています。
メビウスは、パリのモンパルナスにスターダムというギャラリーを持っているのですが、そこで時々展覧会をして原画を売るということをしていました。先ほどご覧に入れたのは、2006年に「ブッダライン」という名前で展覧会を行った時に発表された絵です。
それから、これはエルメスの「ヴォワヤージュ」―旅という意味ですね―という名前の香水の発表の時に依頼されてメビウスが描いたイラストです。
実物は、リボンのような横にずっと長い紙に絵を描いて、それがケースに納められるという、かなり変わった、技術的に難しそうなもので、プレスキット用に描かれたものでした。
(※こちらのエルメス公式サイトで見ることができます)
このエルメスのプレスキットの仕事が2010年の話ですから、もう本当に最後の方の仕事ですね。
この絵などを見ますと、絵描きとしての才能だけじゃなくてカラーのセンスも非常に感じさせる絵だと思います。やはり色遣いにおいてもメビウスはユニークで超一流ですね。これはパソコンで作業をしていて、ワコムのタブレットを使っています。メビウスは最期の方になると、だんだんペンも持てなくなったのでタブレットで仕事をしていまして、最後の『アルザック―巡視者』などもワコムを使って描いています。
ひとつだけ残念なのは、それがちょっと一目瞭然だというところですね。あとはやはり、少し目の方も悪くしていた関係で、ディテールを描くのに画面で拡大して作業をしているため、最終的に全体で見ると、ちょっと調和が取れてないなと思わせるようなところもあります」
■メビウス最後の本『La Cité feu』
ピゾリ 「これは昨年出た、おそらくメビウスの最後の出版物です。
版型はそれほど大きくありません。ここでは即興でいろんなモンスターを描くようなことをしていますね。あるいは、車で走っていて、車の車体が震えているところから、また別なものに変化するというようなものを描いたり。
そうやって、いわゆる描線の追求というか、絵の線の可能性というものを最後の最後まで追求したメビウスであったと思います。
というわけで、発表はこれで以上です。どうもありがとうございました」
原 「ピゾリさん、ありがとうございました」
というわけで、ピゾリさんの発表は以上です!
この後、質疑応答でもいろいろと面白いお話を伺ったので、
後日まとめて公開致します! お楽しみに!